糸依

死の水-発症-

清瀬/糸依 > (──月の雅な真夜中。その美しさを囁かれても、かの詩人の綴ったように自ら死を望めるほどは清くなれない。ならば誰が手にかけてくれるだろうか、見てくれだけは美しいままに終わらせてくれるだろうか。……それを望むのも、傲慢。この世界は幻の中にある。数多の神々の掌に創られているのも一つの姿であり、その世界の果ての滝に落ちれば地獄があるのもまた一つ。だってこの眼で、私たち自身が訪れ、世界は末端のないものだと納得したわけではない。全知になどなれない人間風情が、理解したかのように振る舞うことは野暮なのであろう。どれだけ繕っても所詮は劣等種。どれだけ奉られても巫は道化師で神そのものではないように。そんな惨めな気持ちを埋めてくれるのが、私の場合は本であるだけ。星屑の数ほどある薄っぺらなミルフィーユの世界の見えざる手になれるだけ。愉悦の為の娯楽を、ランプを視界の頼りに捲る。)   (2/23 17:28:19)
清瀬/糸依 > 「……あ」(今日は厄日、人の游がせる噂が気になって仕方ない日。聞こえる言葉全てが自分のことを揶揄うように思われるのは、卑屈な慢心の現れであった。苛立ちを増幅させる何がし某の言動一々がより鮮明に、大袈裟に思い出されて、臼歯が痛みのない不快感を奏でて軋んだ。気がついたその時には白い平坦な世界に亀裂が生まれていて、直線上の細かな明朝体たちを乱す。きちんとした秩序の中に著していた世界が、たったこの一走りだけで崩壊してしまった。このたった手の平よりも少し大きな世界ですら、安寧を保つことができない。いくらこの物語を好きでいても、自ら駄目にしてしまったこれはもう読めない。欠片だけの廃れた小説をどうも捨てる気にはなれなかったが、失態がやけに胸に残りたがる。いっそ壊れるならば華々しく、紙吹雪となって衰えればいい。この指を添えて、引き裂くだけ。それができない自分が鬱陶しくて、情けなくて、普遍的で厭になる。糸依というのは、面白みのない自分を嫌いになったから生まれた成れの果てであった筈。それなのに。)   (2/23 17:28:26)
清瀬/糸依 > 「やだな、もう──」(こんなにも無情な世界は恨めしく、無情の中で足掻くことしかできない無力な自分は愚か者。背中を反って天井を仰いだ時に見えた、壁にかかった軍服。そういえば私は、今まで何人の命を摘んだだろうか。勲章と呼ぶには鉄臭い、王国の整備士とも違う鼻をさす匂い。どちらも洗ったところで落ちない筈なのに、軍人のそれはいくら流しても綺麗にはなれない。鍵を開けた中に綺麗な財宝がないとわかってしまった途端に、風が拐って部屋が色を失う。)「疲れた」   (2/23 17:28:45)
清瀬/糸依 > (一瞬にして、突拍子もなく下らなくなる。背表紙ごと解れた、一つの舞台の瓦解。小さく轟く紙の音は住民の金切り声のようで酷く面白かった。私がいなくなったところで世界は大きく歪まない。こんなちんけな、世界中にいくらとでも一語一句違わずある本がひとつ、消えるだけ。震度すらつけられぬ価値のない響きしか与えられないなら、もう何をしたっていいのではないだろうか。どうせ私たちは有限の中の虫けらだ。放棄の矛先はある一つにかもしれないし、背負った全てにかもしれない。理性という紐に吊るされた感情の瓶が、緩んだ命綱によって一つ地に落ちて割れたのが始まり。積み重なった本の雪崩のすぐ横で、己の今までの全てが引き起こした消えない刺青を呪った。嘘に機嫌を損ねる癖に、自分は偽りばかりを溶かした醜い溶液を含んでいる。)   (2/23 17:29:03)
清瀬/糸依 > 「考えたくない…忘れたい……。もう、やだ………」(自立を手放すと椅子から体がずり落ちて、混沌の床に伏せた。何かの角に打った頬も、明かりから離れて大きくなった瞳孔も、そこに心地好さなんてものも気色の悪さなんてものもない。将に生きた屍、世に仇なす異形達の方が、よっぽど私よりも生きている。思い羽織を被るのは疲れた、整った服に通した腕は縛られているようで堅苦しい。楽になりたい、幸せになりたい、誰かにすがりたい。一人は嫌だったけれど、傍に置くには誰も眩しすぎる。自分がしてきた行いも、過ちも、どこになら捨てても怒られないだろうか。罪という幻想の監視から逃れられる場所は、この世界にはないのだろうか。ならばいっそ殺してほしい、美しくなくてもいいから世界に手放して欲しい。自ら断つ覚悟がなければ、世はしぶとい臍の緒を斬ってくれる程至れり尽くせりではない。)   (2/23 17:29:36)
清瀬/糸依 > 「し、ろう……」(視線の先にある制服から頭だけが覗く、魔除け色の鉢巻。衰弱の具合は、言葉を憚る筈の人物が無用心にも口にしてしまうたった一瞬で知れてしまうだろう。兆しを脳裡に思い浮かべて、そのまま全てを慎んだ。じっとりと掠る惨たらしい汗も、失望を練り込んだ涙も、自らが呼んだ向かい風の世に晒されて乾いた身から出ていると思うと恐ろしくて仕方がなかった。眼球を抉りたいのをぐっと堪えて、爪先が紅で洒落込むぐらいに両手を胸の前に握りしめた。鎖骨の下が潰され、締まる喉を抉じ開ける空気はかひゅ、と音を鳴らす。芥のぶちまけられたような部屋で、眠りとも気絶とも違う、核ばかりを深海に潰されながらの浮遊が襲った。助けを乞う透明な槎は、狂気という風をうけて干上がった海に横たわる。)   (2/23 17:29:55)