誌洲

真澄鏡

蕨/誌洲 > 「…………」(草木も人も眠れる丑三つ時、兵営には踵を鳴らす音の一つすら響かない。ここの所引っ切り無しに続く戦のせいで、泥のように眠る者もあれば、主人を待つばかりの蛻の殻も少なくないだろう。今も厘都へ向かっている部隊があるのだ。そんな静寂が支配する兵舎のある一室、誌洲というこの男も、守山遠征から帰投したばかりであった。しかし、床に就いてはいない。小さな常夜灯の仄かな照り返しを受けながら、黙して文机に向かっていた。何をしている訳でもない。ただ、眺めていた。胡座をかき、腕は確と組みながら、机上の真ん中に据えられた一升瓶を。どことなく普段の険の取れた表情をしているその顔貌には、丸眼鏡が掛かっていない。横になって眠る時と湯浴みをする時、それ以外は必ずと言っていいほど彼の目と世界とを隔てている筈のレンズは、酒瓶の傍らに、つるを折り畳まれることもなく捨て置かれていた。透明な瓶の黒黒とした存在感の隣で、細い白縁は曖昧な影を落としている。)   (1/15 22:42:38)
蕨/誌洲 > (誌洲は不意に腕を解き、一升瓶をぐいと手前に引き寄せた。なみなみと満たされているどころか、一度も栓を抜かれた形跡のないそれは見た目なりの重量で、擦られた机は微かに軋みを上げる。硝子の肌を撫ぜると指の腹が粉っぽくなり、薄らと埃が積もっていることに気付いた。ふっと息吹くと、チラチラと白い塵が舞う。眼鏡なくしては到底認めることの出来ないそれらに鼻腔を擽られた。)「……っくし!」(掴まれたままの酒瓶の中身は、くしゃみの衝撃を受けて僅かに波打った。項垂れながらも誌洲の視線は、その冷え切った魔性の水を捉えて離すことがない。――こうして何かを注視していようが、瞑目しようが、ふとした瞬間に蘇ってくるものだ。そしてその再燃現象は、経験する度より一層鮮烈に、弥増し濃く塗り込められていく。)   (1/15 22:42:45)
蕨/誌洲 > (慣れたと言えば、慣れたんだろう。いつまで経っても慣れないと言えば、慣れないのかも知れない。ただ確実に、人の死というものと親密にはなっている。生存本能が遥かに遠ざけたがるものに、鈍くなっていく。麻痺していく。摩耗し続けている。この感覚がいつ終わるのか、果たして終わっていいものなのかも俺にはまだ分からない。分からないが、生涯それを知ることはないんじゃないかという気がしている。今の所は。気味の悪い泥濘んだ恐怖に何かを削り取られていってる、そうだとしても、俺はただ、治したい。治したいだけなんだ。救うだとか助けるだとか、そんな壮大で高尚なことなんざ考えちゃいない。たとえ命を拾い上げた所で、後遺症を引き摺ってその後の人生を送らなけりゃならないなんてこともざらにある。そんな場合を含め、戦場で死にたかったなどと宣う馬鹿共は後を絶たないのだ。脈拍が弱り、末端の体温が失われて青白くなる。喘鳴が大きく、不規則になる。やがて、止まる。心臓の拍動だけが、暫く取り残されたりもする――死の訪れ、生命が消えるその瞬間を、帝國に捧げたかったのだと。)   (1/15 22:42:51)
蕨/誌洲 > 「……馬鹿共が……」(自らの意思を確かめるように呟きが漏れた。俺の興味の主眼は、飽くまで人の傷を、或いは病を治療することにある。当然、常に最善は尽くす。行き着く先が完治であろうが、寛解であろうが、障害であろうが……まあ、惜しむらくもこの世を去るという断崖絶壁だろうが、結果は結果に過ぎない。知ったことじゃないんだ。先細りになっている瓶の開口部へと手を滑らせ、栓をぐっと握り込む。気の利かない元患者が医者の俺に、礼と称して酒の類を贈ってくることはそう珍しくない。大抵は人にやってしまうのだが、一本だけは、こうして自室に取り置くようにしている。こんな夜の為に。――これを飲めば。一杯、いや一口でもべろべろに酔えるだろう。俺は酒を飲まない。職業柄そう理由を尋ねられはしないが、健康への配慮というよりも、実際は単なる体質だ。アルコールを受け付けない、恐らくは分解酵素を持たないということなんだろう。)   (1/15 22:42:56)
蕨/誌洲 > (だから、この瓶にたんまり漲ったこの液体を舐めでもすれば、立ち所に身体は紅潮し、熱を帯び、浮かされる。忽ち頭の中が鼓動の音で埋め尽くされ、冬の板張りに転がるしかなくなる。目が覚めれば明日は疎か、下手をすれば翌々日程度までは悪心と頭痛で意識のキャパシティを狭められるだろう。余計なことを考えずに済むという点では、実に素晴らしい対処法だ。そも人は、だから飲むんだろう。臓腑の底から愚かさに染まりたくなる、それも情というものだろうから、俺にも備わっている筈だ。このように。――巡る思考回路とは裏腹に、指に力は籠らない。そんなことをすれば、治せる人間も治せなくなるかも知れない。また日が昇れば、誰かを診ることになる。)   (1/15 22:43:00)
蕨/誌洲 > (――焦点が拡散してしまったかのような視界では、汎ゆる物の輪郭があやふやだ。その中で無色の瓶だけが、その内側に満たされた清い酒だけが、ひたすらに透明で澄み渡っている。覗き込もうとした。硝子の表面に反射した燈火が、自分の瞳の色をより鮮やかに映り込ませている。そんなものをじっと見詰めている気にもなれず、双眸を瞼で閉ざした。下らない。そのまま机に突っ伏す。木の香りがした。そりゃあ、寝台で眠った方がいいに決まっている。そんなことは分かり切ってる。俺は医者だし、巫子だ。でも、もう関係なかった。一刻も早く、燃え上がる色彩を脳裏に描いたまま意識を手放したかった。再び肺一杯に芳香を吸い込むと、薄く開いた唇からゆっくりと吐き出す。)「……螢一、羽瀬……」(『――ごめん……』凡そ音の粒子とは成り果てなかった最後の囁きは、当て所なく鳩尾の奥にのみ反響した。手を離された一升瓶が、黒髪のつむじを反照しながら見下ろしていた。)〆【真澄鏡】   (1/15 22:43:07)