落陽

尊華帝國軍記 落陽ノ章

ひよ/落陽 > 臥平での攻城戦は尊華帝國軍の勝利で幕を閉じた。王国騎士団を率いるアレイス、雷鏡との死闘を制し、再び彼の地に帝國の御旗を突き立てたのは、大尉官落陽である。  彼女は王国による休戦協定を無視した侵攻の本格化した頃より幾度と戦場に立ち、魔術師を率いて防衛指揮を執り、これを全て退け、尚自身には一切の傷を負わずに帝都へ帰還していた。実際その場に立ち会ったものは、同行した魔術師を他に居ないものであるから、彼女の事を快く思わない血統主義者の帝國軍人は、あれやこれやと勘繰り、悪しき風評を流すとするものの、彼女はそれを特に厭うわけでもなく、普段の事であろうと、涼しい顔をして内心、堪えに堪えていた。  しかし今回の臥平奪還については、誰に目にも見える功績である。それこそ、帝國のみならず、王国、また、ヨズアの民にも。帝都に隣接する領土の奪還を成し遂げたという武勲は、同時に以前ここを陥落寸前まで追いやり敗走した竜灯に対しても、そして、現状を危惧しておりながら早急に行動を起こそうとしていなかった軍部に対して、それぞれ与えるものがあったに違いないであろう。   (1/5 11:31:52)
ひよ/落陽 > 斜陽の射し込む臥平城塞門前、四肢から鮮血を撒き散らしながら、彼女は眼前に倒れ込むひとりの男を見下ろしていた。雷鏡である。彼は膝から崩れ落ち、どうするかと思えば、涙を流していた。 「ごめんよォ……兄ちゃん………みんな……こんな、不甲斐ない……男でよォ……」 魔術の轟音の消え去り、凡そ風の吹く音と草葉の揺れる音しか聞こえない静かな夕暮れ時、そんな涙ながらの悲痛な声は、嫌になり、耳を塞いでしまいたくなるほどに、強く落陽に響いた。  彼女は刀にこびり付いた血油を振るい落として、ゆったりとした動作で鞘に納める。彼の以前に相手をし、仕留めた男。アレイスという男はどうにも、この雷鏡の兄であるようで、兄弟を傷付けられ居ても立ってもいられなくなったのだろうか。多少手荒だったかもしれないが、しかし、これもまた貴方がたを思ってのことだと、何度も何度もそう脳裏で繰り返し、自分を説得する落陽であったが、突如どさっという音と共に、彼は気を失った。   (1/5 11:32:59)
ひよ/落陽 > 沈黙が流れた。本心では声のひとつやふたつ掛けてやりたいものだが、どうにも意識を失ってしまっているし、仮に意識があったとしても、きっと彼は落陽のことを強く憎んでいるのかもしれない。まともに会話ができる保証などは、どこにもなかったのだ。落陽はその様子にある意味、ようやくほっと一息つけそうな心地であった。  ──しゃがみ込み、彼の傷の具合を確認する。下腹部、四肢にガラス片のような魔術障壁が突き刺さり、血を流している。出血多量……とまではいかないが、気を失うほどであるから、相応のダメージを負ったものか。じきに、騎士団の者が彼の身を回収にくるだろう、鉢合わせになってもまずいものだからと、落陽は後方に控える、長期の籠城戦に備えて同行させていた兵站輸送部隊の馬車の並ぶ地平線の方角へ向かった。   (1/5 11:33:05)
ひよ/落陽 > 戻ってみれば、兵は皆万歳三唱である。尊華帝國万歳、尊華帝國万歳、落陽大尉万歳と。落陽は辟易とした。先程あんなものを見てしまっては、どう喜んでいいものか、彼女には凡その見当もつかなかったのである。だから、周囲からひっきりなしに聞こえるその声には何も返さずに、小さく敬礼をして、二頭の馬が引く荷台の方へと向かっていった。  木製の荷台の上には、今回の会戦の前哨戦において負傷した魔術師の兵らが、横たわるなり、縁に凭れ掛かるなりして、その身を休めていたものであるから、彼等を指揮したものとして、何か声を掛けねばならぬと、そう思ったのである。 「諸君、御苦労であった。諸君らの活躍あってこそ、前哨基地を奪還し、そうして臥平城砦の攻略も──」 「大尉」  落陽の言葉を遮るように、しっとり濡れた絹のような黒い髪をした魔術師が、……九十九が、そう声を挟んだ。彼女はそう落陽を呼べば、自らの頬をつんつんと指し示し、告げる。   (1/5 11:33:20)
ひよ/落陽 > 「大尉。お顔、汚れておられますよ。──これで、お拭きになってくださいな」  何の事かと落陽は思った。私の顔に何かが付いているのかと、近くにあった布を冷やすための冷水の入れられた木桶を水鏡に、己の顔を覗き込む。──どす黒い血液が、右頬にかけて肌を染め上げていたのだ。レースのハンケチを渡す九十九には目もくれず、思わず以前の光景を思い浮かべて、落陽は不意に口を両手で覆った。  血染めの白手袋でもってして。鼻孔につんと突き刺さるような鉄の香りをより鮮明に感じるのと同時に、先程の兄弟の痛みに耐える声、涙を零しながら兄を想う声が脳裏に何度も反響し、今このまま嘔吐してしまいたくなるような衝動に駆られるも、これを文字通り飲み込んで、酷く悪い顔色でそう魔術師らを振り返る。皆、殆どが落陽よりも歳上であろうか、兵として戦場にいる期間も、きっと彼等の方が長い。彼等は落陽を、哀れみの混じった瞳で眺めていた。   (1/5 11:33:35)
ひよ/落陽 > ──帝國軍による臥平への侵攻は夕暮れ時に行われ、陥落後、王国騎士団の撤退完了に至る頃には、既に日は落ち、一体を夜の帳が下りていた。空を見上げれば星々がまばらに瞬き、月明かりが僅かだが、柔和に臥平の草原を照らしていた。臥平は帝都と隣接しているため、そのまま帰還も叶う距離ではあろうが、それでも一度は王国色に染め上げられた臥平の城砦の内部を、ある程度は以前のように戻しておく必要があるものだとし、加えて疲弊した兵を率いての夜間行軍は草臥れるものがあるだろうと、指揮官である落陽は臥平城で夜明けを待つことを選んだ。  いざ入城してみれば、宛ら王国がそこにあるようで、随所のテーブルには王国風のスープなどが微かな湯気を立てたまま放置されており、以前までそこに王国領としての日常があったことを窺わせる。いくら今回の名目が奪還であったとしても、これが戦争なのだというのだから、いちいち堪えていられるかどうか知れたものでない。   (1/5 11:33:55)
ひよ/落陽 > 適当に置かれていた姿見で自分の姿を見てみれば、戦闘の支障と考えられるため外してきた勲一等旭華大綬章、銀四等十文字星章を除き、大礼服や軍帽、サッシュの至るところにまで赤褐色の痕跡が見え、手袋を脱いだ素手で口元を押さえる。至近距離から、宛ら散弾のように魔術を放ったのだから、致し方ないのは彼女もわかる。しかし咄嗟に目を逸らし、ジャケットを脱いでは立ち襟シャツ姿になる。行燈袴をより短くしたようなスカートはそのままに、適当な木箱に凭れ掛かって、そのまま気を失うようにして眠ったのは、ある程度の指揮の終わり、城内の静まり返り始めた丑三つ時であったという。   (1/5 11:34:09)
ひよ/落陽 > ──翌日、帝都。帝國軍本部基地では、一室を用いて叙勲伝達式が行われる運びとなり、落陽は真新しい予備の大礼服に身を包み、眠気の取れぬままに臥平事変従軍章を授けられた。こうして落陽の胸元には勲章がひとつ増えたことになり、また、たった一日ではあるが休養期間が与えられた。即日、落陽は本部基地を駆け出し、隠れ家の如き神籬神社今宮で、嗚咽を零していたものであるというが、その姿を見た者は誰もおらず、翌日には普段通りの姿が、大尉官執務室に在った、と。(『尊華帝國軍記 落陽ノ章』 〆)   (1/5 11:34:26)