ヨハン
沙羅双樹の子護唄マリア/ヨハン > (7月中旬。スザンを経ったヨハンはサンホーリへ向かっていた。逃亡者は北へ北へと逃げると言うが、ヨハンもその例に漏れず、北を……シントを目指して進んでいた。暖かくなってきたことで数日は野宿ができるようになったのも流浪の身にはありがたい。それでも、蝶よ花よと甘やかされた身じゃせいぜい連続2日が限度で、時折安い宿へ泊まったりもしたけれど、スザンで出会ったジブルという男と共に過ごした二週間強と移動費に加え財布はかなり軽くなっていた。サンホーリの中心部に着いた時、天気は最悪で雨と突風を伴うスコールがヨハンを襲った。今日は野宿はできないと判断するが、歩けど宿が見つからない。やっと見つけた宿は高級そうな旅館で、だけど構いやしないとヨハンはそこへ飛び込んでいった。……そこで一晩を明かし……二晩を明かし。…… なんとなく支払いに行きたくない気持ちから、三日三晩を明かした。上品そうな女将が『……お客様、申し訳ありませんがそろそろお代を一度精算していただきたく…』と三指をついて現れた時、思わず出る時に払うと言ってしまった。 (1/3 23:33:43)
マリア/ヨハン > 湯浴みをして身ぎれいになった上、上等な服に身を包んでいるヨハンを見れば、大丈夫かとは思いつつ女将は引っ込まざるを得なかっただろう。思えばこの時には既に、払う気がないと選択肢を決めていたのかもしれない。ちなみにいくらだと聞いた時、帰ってきた言葉にヨハンは言葉を失ったのだから。ジブルから貰ったものはたくさんあったが、『生きているものから奪わなければまだましだ』という都合のいい盗人根性もまた、ヨハンの心に誘惑を落としていった。食事は外で済ませているし、ここでは布団を借りているだけ。……自分が払わなくたって、マイナスじゃない。この旅館が立ち行かなくなったりするわけじゃない。ちょっとくらい……自分はこんなに困っているのだし、うん。 (1/3 23:34:08)
マリア/ヨハン > ――――そして5日目、「ちょっとまた食事に出る。担保がいるなら一筆残す」と言ってそのまま宿から抜け出した時、ヨハンは味をしめた。一軒目、二軒目、3軒目で不正がばれて、こてんぱんに懲らしめられるまでは。)「………っくぅ、う…痛ぇ……よぉ……。あの番頭、なんなんだよ、客にこんな仕打ちするか……よ……。」(3軒目で見つかったのは一夜目だった為、まだ運が良かった。一日分の宿賃を払った上、ちょっと折檻を受けるだけで済んだのだから。だけど道端に放り出されて、ヨハンは身体よりも心がすっかり凹んでしまっていた。) (1/3 23:34:14)
マリア/ヨハン > (『……あら、あらあら。まあ、大変――……僕ちゃん、どうしたの?立てる?』……だから、そこで声をかけてくれた老女は天使か女神に見えたのだった。)「……う、うぅっ……ふっ……うぅう……」(老女はヨハンの背中を優しく擦り、彼が落ち着くまで辛抱強くまってくれた。―――気がつけば、その老女に手を引かれて、なし崩し的に厄介になることになったのだ。まったく人の優しさにつけこむのがうまい男である。)「……ばーちゃん、オレそろそろ行くよ。」(宿での事、そしてジブルの事を思うと長く留まりたくはなかった。だけど、そんなヨハンに老女はいつも言うのだ。『まぁまぁ、そう言わずもう少しゆっくりしたら……”与平さん”』オレの名はヨハンなのになぁ。ばーちゃんは、何度言っても覚えてくれなかった。――老女は自分の事は何一つ喋ろうとしなかったが、ヨハンにいろんなことを教えてくれた。ヨハンが食べた事のない菓子を食べさせ、彼女が愛した景色を語って聞かせてくれた。) (1/3 23:35:08)
マリア/ヨハン > 「……ばーちゃん、ばーちゃんはここにひとりで住んでんの?……大変じゃない?その、体だってうまく動かないんだろ。」(老女は、そうではないと言った。孫がいるが少し出稼ぎに行っているだけだと、そして、心配されるほど歳を食っているつもりもない、と冗談めかして笑った。)「ばーちゃん、オレ、礼拝に行ってくるよ……。」(月曜の朝、そう言うヨハンに老女は『あらあら、こんな早くお参り?えらいねえ。おばあちゃんも、仏さんに与平さんのことをお願いしておくからね。』――参拝じゃなくって礼拝だって。仏さんじゃなくって神様だって。やっぱり何度言ってもばーちゃんはヨズアの事に疎いみたいだった。彼女が『仏さん』と言うのは死んだ旦那さんの事も含んでるみたいで、よく祭壇のようなものの前で手を合わせているのを見ると、幸せな結婚だったんだろうなぁとヨハンに思いを馳せさせたのだった。ある日、彼女は『あれがないわ』とこまったような声を漏らした。ヨハンと過ごす一週間ほどの間、『あれがない、これがない』と言うのは初めての事じゃなかったから、少しぼけているんだろうなとは思っていたが、今回は、ちょっとそれが長かった。) (1/3 23:35:20)
マリア/ヨハン > 「……何がないの?ばーちゃん。オレ、探してやろーか。」(彼女は言った。『あれ、与平さんに、きっと似合うと思うのだけど……与平さんにあげたくて、あぁ……なくしちゃったのかしら……。』彼女と一緒に家中を引っ張り出し、最後に祭壇のようなものの引き出しを見る。奥に大事そうにくるまれたものを見てヨハンは言葉を失った。……これは、古代ヨズアの魔術板じゃないだろうか?……ヨズアに疎いと思っていたばーちゃんが、どうして……。その場に立ち尽くしていると、後ろのほうから『あぁ、あったわ……!』と声がし、とことこと近づいてヨハンに何かを渡した。その時、玄関が開く音がし、彼女の言葉は『………あれ……おかえり。』と、続いた。)「………!」(老女の後ろに立つのは、話に聞く彼女の孫のようだった。『……婆さん、また……変なの拾ったのか。』彼は何か言おうとするヨハンの腕をぐいっと引っ張り、外に連れ出した。)「……ちょ、ちょっと……何すんだよ……!オ、オレ、何もしてないからな!」 (1/3 23:35:33)
マリア/ヨハン > (老女の孫と思しき男は、なるほど彼女によく似た顔をしていた。何も言わずにヨハンを家の遠くへと導く。)「…………何なんだ……離せよ……痛いって……」(その言葉を遮ったのは、『ヨズア人だろ、お前』という言葉だった。思わずどきりと心臓が跳ね、彼をにらみつける。――ヨズア人だから、なんだってんだ?『……うちの婆さんはぼけてるんだ。……ヨズアに関わると、あんまりよくない。……帰ってくれないか』そう言うと、ヨハンの手に持ったものに視線を落とし、『それは持って帰っていいから。』と付け足した。)「……ヨズアと関わると?どういう事だよ、……オレがヨズア人だからばーちゃんと関わるなっていうのか?」(男は少し悩んだ後、ヨハンの腕を離して近くの石に腰掛けた。 (1/3 23:35:54)
マリア/ヨハン > 語るところによれば、老女は若い頃にヨズア人の豪商に”買われて”いたそうだ。今は『仏さん』となった彼女の夫に助けられるまでは、辛い日々を過ごしていたらしい。ヨズアの事を忘れろ、ヨズアの言葉を忘れろと言ったのは、その夫の優しさからだった。この孫が小さな頃から、あの家ではヨズアの事を話すのはタブーだったそうだ。だけど数年前にぼけが進行して以来、なぜかスラムのほうへ徘徊したり、ヨズア人を見ると放っておけないようになったのだと言う。)「………」(ヨズア人と過ごした日々が彼女を未だに縛っているのだとしたら、ヨハンは何も言う事ができなかった。ぽろぽろと、声もなく涙を溢れさせて手の中のものをぎゅっと握り込む。孫は続けた。『あんたに私怨は無いさ。うちの沙羅婆の話し相手になってくれてありがとう。』 (1/3 23:36:07)
マリア/ヨハン > あの老女の名は、沙羅と言うのか。ヨハンはこくこくと頷いて、そこから立ち去る事を決意した。――サンホーリの夏、熱い熱帯夜。珍しい沙羅双樹の花の香りが風に乗って、ヨハンの頬を撫でた。オレの居場所はここにもなかった。ただ、婆ちゃんがくれた沙羅双樹の花の髪飾りだけは、どうにも捨てる気になれなかった。)〆【沙羅双樹の子護唄】 (1/3 23:36:17)